小津安二郎から21世紀の映画へ
『位置について、』 飯野 歩() 16'01 | |
【審査委員長 品評】 本作は現在では随分数の減った町の銭湯を舞台に、銭湯を経営するにはもはや遊軍ですらありえない痴呆の母親を持つ兄と妹の新たなスタート地点に立つ姿を中心に、ここに出入りする人々の人間模様を描いて、猥雑さの中にクールな人情喜劇の新機軸を拓こうとするものである。兄はプロを目指していたギタリストから転じて銭湯の経営を継いだもののようである。妹はそのお蔭で長年の夢だった修業のためにパリへ出発しようとしている。ところが、口さがない兄の友人が一種のトリックスターを演じて妹の心を掻き乱す。すなわち兄は夢を諦めてこの仕事を仕方なく継いだから負け犬感に打ちひしがれ夜な夜なせめてもの慰みに新しく駅前に出来たエルミタージュという名のランジュリー・パブに通っているのだと。ところが妹の穴を埋めるべく採用したアルバイトの若い女が登場、はたしてこれで代役が務まるかと思えるような頼りない人物と見せておいて、実は難題をバッサバッサと解決していく。ケッサクは兄のキャバレー入りびたりという虚言を、妹と本人(兄の友人)の前で兄さんを店で見たことはないと、自らがラン・パブ勤めをしていること、銭湯のアルバイトを終えた後のラン・パブ勤めを認めてほしいという頼みと同時に証言する場面だ。兄の夜の行動が実はカラオケ・ボックスでのギターの練習に宛てていたという、銭湯経営と両立させて見せるという兄の心意気を示す裏話を一気に表に反(かえ)して、妹の逡巡を逆に叱咤激励させるという本筋に繋がらせ、妹の晴れやかな「位置について、用意!」のラストを見事に用意(・・)した。なかなかの構成術と云わねばならない。 |
『なみぎわ』 常間地裕() 20’00 | |
【審査委員長 品評】 一気呵成に映画に込める思いを語り尽くそうとする、それは見ている者にも波及せずにはおかない。ある種の快感も湧く。18歳の二人の青年の鬱屈と憤怒の形、それは各々の立場から一見違うように見えながらも最後に自転車に相乗りするように同伴するものだ。合格の通知を受けたも拘らず両親には駄目だったと伝え、父親から浪人は許さぬ、おれの会社に雇ってやるから働けと云われ、特に言い返しもせず友達に会ってくると云って自転車で走り出すA。彼は美術系に進みたかったらしいが、特にそれを主張もせず父親の勧める大学を受けたようだ。彼は友人宅に向かう。と、同じくそこに行こうとしている役所の知人と遭遇するが、家の前には戸をどんどんと叩く借金取りと称するやくざ風の二人の男が来ている。留守か?男達はいったん引き上げていく。Aも役所の男と別れて船着き場に向かう。観客はすでにAが自転車に乗って町の通りに漕ぎだす辺りから気づいているはずだ。カメラが一度も止められていないことに。友人のBは日々漁場にも出ているのだろうか。今日はもう上がっていいらしい。Bはすでに学校を止めて働いている。Aの告白も聞いてやるがBにとっては贅沢な悩みだ。しかも、家にはやくざ風が押しかけてきたと聞けばAの相手もしていられない。すぐ近くで二人は別れBは家に戻る。ここから映画の主体はBになる。実は中に隠れてBの親父はいた。呑んだくれて給料の前借りまでして来いという親父は、Bに対して殴る蹴るの暴行を働く。それはBが幼い時から続けられてきたに違いない。母親もBを置き去りにして早くに逃げ去ったのだろう。親父と入れ替わりに来たのがやくざで、二人からまた殴られるBは役所の男が来たのを潮に逃げ出す。ちょうど通りかかったAの自転車に同乗して、どこか遠い所へ行こうと船着き場に出る。そこで親父と出くわすが、もう借金取りは帰ったと親父を安心させる。親父はやくざの待つ家に帰っていくだろう。そして、それを尻目にAを荷台に乗せてBは一目散に走り去っていく。この作品の中で息子に対する父親の暴力が描かれる。直接的な暴力と間接的な暴力と。これもまた一見違うようで、一個の人間を支配しようとする共通の暴力だ。現代社会の病巣の二典型を見事に描いたと云えるが、それに対する二青年の描写が余りにも甘い。君たちは18歳だろ、どこか遠くへ行きたい?でもあるまい。 |
『産むということ』 マキタカズオミ() 19’58 | |
【審査委員長 品評】 深刻なテーマを過不足ない演出で撮っていると云える。だが、出生前診断で障害を持つ子が生まれる可能性を指摘され、一度は産まない選択をした夫婦が、その後の悔悟から今度妊娠したら出生前診断をせず産もうと、夫婦ともに決意して産んだとさせたなら、しかも、やはり一度目に懼れられていたダウン症の子が生まれたとするならば、いくら覚悟の上とはいえ、そしてベッドを呉れた同じ職場の先輩が意外にも我が子を虐待していたという衝撃の事実が夫婦二人に強いた、堕胎に対しても同じような罪悪感からの格別の覚悟であったにしても、本作が最後に用意した余りに短いあっけらかんとした親子の描写で済まされるものでなかろうというのが評者の一番の批判点である。むしろ映画はそこから始まるのではないだろうか。 |
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『わたしが発芽する日』 野本 梢() 19’55 | |
【審査委員長 品評】 かなり歳の差のある姉妹の話は海辺から始まる。妹は姉がリードしてやらないと波と戯れることもできない。それは妹が言うように栃木から出てきていて、そこには海がないものという理由だけとは見えない、妹の多少の自閉症的、いささかの知的障害が感じ取られる。事ほど左様に姉は妹を手元に置き保護者をもって任じている。姉には十年来の思いを婚約指輪に託して結婚申し込みをする恋人がいて、その申し入れを一旦は受けるが、やはり妹を放り出して結婚は出来ないと思い直して指輪を返してしまう。その事に気づいた妹は、男の職場へ出掛けて行って姉に指輪を返してくれと迫る。妹にも自分が姉の枷になっている潜在的な意識があるのだろう、ホームセンターのアルバイト広告を見て雇ってもらうのだが、電話注文に対応できず「普通じゃない」からと即刻の解雇。「普通じゃない」の宣告は彼女にとってもショックで後を引き摺る。ちょうど栃木から父親が来て、姉との間にはそれなりの黙契があったと見え、今度は父親の引き取る番という感じで、苗好きな(今も、室内で豆苗を育てている)妹には、各種の野菜が今育っているぞと云って気を引き、車に乗せて去っていく。妹の留守に婚約者が、妹に云われて目覚めたと、あらためて申し込みに来る。姉はそれを受けつつも、自分が妹の保護者のつもりでいたのだが、妹がいないとダメな自分がいることに気づいたと告白。男は二人は一緒にいればいい、とまで云ってくれるが、姉は一度戻ってきた妹に別々に暮らそうと提案、妹は素直に受け入れるばかりか、お祝いのプレゼントまで用意していた。だが、ここで本作を辿り返してみると姉は自活しているように見えながら、彼女の社会生活が一切見えず、一方父親から妹の面倒を見る代わりに仕送りを受けているとも見えず、妹への思いとは別に日常を生きねばならぬ女としてのリアリズムに事欠いている。ラストは再び海岸。姉と男は水入らずで散策していると見えるが姉が急に蹲ってしまう。「普通じゃない」妹に対して保護者を自認していた姉が、自分もまた妹の不在に耐えられないという人間存在の奥深い謎をあぶりだしているように見せたいのだろうが、どうしても観念的な設(しつら)えに見えてしまうところに本作の限界がある。というのも、先に書いたように姉の生活人としての在り様がしっかりと捉えられているなら、妹への逆依存があったとしても、そして、それが同時に妹を田舎に追いやってしまった罪障感を伴うものであったとしても、それは砂浜に赤子のように蹲る体のものとは違った現われになるはずだからである。 |
撮影技術賞 『IMC』 |
『IMC』 Ark() 16'30 | |
【審査委員長 品評】 タイトルのIMCとはIbaraki Must Change.の謂いだが、同時にI Must Changeをこそ意に含んでいる、というのが本作のミソである。県職員の主人公は退職願を懐に抱いているほどに、自分を変えたいと今回の茨城県のPRのための映像制作に体を張っている様子。高校時代の放送部で一緒だった友人の汐里が勤めるCM会社に仲介を頼んでPR映画の売りこみに来たというわけだ。あわよくば、その延長として映像制作に身を置きたいと考えているのだろうか。そして、本作の見せ所はCG合成を使った映像的な飛躍にあるとばかりに、茨城の名所、袋田の滝や五浦の六角堂や牛久の大仏などを使ってそのアイデアを披歴もする。その内、主人公は元放送部のエースっぷりを発揮し出して生き生きしてくるが、県の職場の上司からCFのレポーターにご当地アイドルを使えと電話が掛かってきたのをきっかけに、再度出直してくると本人が決めた。だが、この時にはすでに彼には迷いはなく、県職員として未来を見据えようと心に決めた様子。それには、かつて同じ放送部の汐里を本人が気づいていないうちにヒロインに仕立てて自主映画を撮った時の達成感の如きものを再体験できたからと云ってもいい。そして、実は今回の主人公の企画持込みは、かつて自分がやられた本人が気づいていないうちに主人公にするという仕掛けを当の汐里が仕掛けて、主人公の持ち込んだ企画を一緒に検討するかに見せていたスタッフ、監督とカメラマンとプロデューサーは全員汐里に頼まれた劇団員だったというオチが付いている。それは、かつての仕返しか、それとも恩返しか、と劇団員は問うが、それは自ずと愚問であることは汐里の所作をみれば歴然だ。だが、それにしても作者の意欲が余り過ぎ、仕掛けの手が込み過ぎていて、かえって損をしている。仕掛けがあろうとなかろうと、主人公は自ら書いた退職願を握りつぶすのは目に見えているし、汐里もまた主人公に対する好意のゆえに、それを後押ししようとしていることに変わりはないからだ。日常をデコレートする想像力は無敵だ、とは二人の合言葉だが、かえって想像力の罠に嵌ってしまった感を拭えない。 |
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『くれむつ時の鐘』 斉藤亜沙美() 19’42 | |
【審査委員長 品評】 高校の映画クラブも残るは幼馴染の男女、隆太と瀬奈の二人のみ。二人が卒業すれば、廃部になるしかない。瀬奈は地元、川越の映画祭が短編募集していることもあり、映画作りをしてみないかと隆太を誘うが、隆太は夢を語るみたいにしか今は話せない瀬奈に取り合わない。大体が瀬奈には内緒にしているが、近々この町から引っ越すことになっているのだ。それでも二人は隆太の持つカメラを媒介に、一時(いっとき)映画の夢と疑似恋愛の狭間にいることができた。だが、まもなく隆太はカメラのみ置き土産にサヨナラも云わず立ち去った。そして十年の時が経ち、瀬奈は隆太のカメラをお守りと称して持ち歩き、川越を舞台に自主映画を撮り続けているようだが、この町を訪れた嫁さんと赤子連れの隆太とすれ違うことになる。作者にとっては二人が言葉も交わさずすれ違うということが、あらかじめ決められていて他の展開は全く考慮の外にあったろうと思われるが、そこが作者の現在形の限界のように見える。元来、高校生の男女を描きながら殆ど女の片想いに終始しているので、男にとっては何の痛痒も起きないことは目に見えている。だから女にとってのショックは当然だが、映画が作者の思いに反して何ら運命的な名シーンにならないことは火を見るよりも明らかだろう。 |
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『椿とあんず』 小野光洋() 20’00 | |
【審査委員長 品評】 椿とあんずは卒業間近の仲良しの女子高生。まず登校の途中から今日はサボろうとなって、お互いやり残した青春ぽいことを何枚か紙切れに書いて袋に入れ、ランダムに取り出して一つずつ実行しようというあんずの発案に椿も乗る。最初は自転車を盗んで走り回るというあんずの提案。そこに都合よくあった自転車に跨ったところで一年下の男子が登場する。彼もまた学校をサボっているのだが、悪びれるどころか学校教育に縛られぬ高校生活を送っていると豪語する。しかも、その自転車は自分のモノだという。盗むどころか、ちょっと借りるね、となってしまった。その後も他愛ない紙切れの冒険。ミソは椿が生物担当の教師島田先生に告白できるかということ。件の男子生徒が現われて、島田先生のウオッチャーよろしく、どこからどこに向かっているから、今からどこへ行けば出会えると知恵を授ける。結局、椿は何度もチャンスを与えられながら、最後の最後まで目的達成できず、明日は先生の授業に出ようと、あんずを誘ってこの日は暮れる。大学生の彼氏を持つあんずに比べて作者は椿の初心さ加減を愛でているのか。評者にとっては作者自身の初心さ加減が気になるところだ。 |
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『ネギはからだにいい』 伊藤貴祥() 2'09 | |
【審査委員長 品評】 短編だからと云って一発ギャグで事足りるというものではない。たしかに熱を出して寝ている男が、恋人が見舞いに食材持参で来てくれたのにつけ込んで、ついむらむらとその気になると、そのお仕置きに男の尻の穴にどでかく堅いネギを叩き込む、というのは意表をついて面白い。アニメという手法も生かされている。だが後が続かないのでは竜頭蛇尾もいいところ。翌日の朝食の味噌汁に、そのネギが刻まれて浮かんでいたというオチでは逆に理に落ちすぎていて笑えない。 |
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『ヒロイン』 松崎まこと() 17'33 | |
【審査委員長 品評】 臨終の床にあるまだ四十代と思われる父親が年頃の娘と友人の前で最後の言葉を残して死んだ。それは「かおり」という女の名前のようだった。だから偶々着替えを取りにその場に不在だった母親にも伝えていないと娘は云う。葬儀も終えた後、父の友人は娘に「かおり」は父親が若い時に脚本を書き監督した自主映画三本に共通するヒロインの名前だと明かす。そして友人は娘に、往時ヒロインを演じた女達を次々に引合せていく。同時にそれら映画の一端も見せていくという趣向だ。そして、往時のヒロインを今劇団に入って芝居をやっている娘に演じさせてもいる。だが三人の女達との関わりも、今は亡き父親と付き合っていたとか、そのうち別の人が好きになったとか、とりとめない挿話が続くばかりで、娘にとって父親という存在を決定的に見直さざるを得ないような真実の発見があるわけでもなく、平板な印象は否めない。父親は最後に「かおり」と呼んだのが、偶々三番目の「かおり」役をやるはずだった女が現在はテレビのニュースキャスターになっていて、その時画面に出ていたのを見て呼びかけたという仕掛けも妙に白けるばかりだ。 |
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『まどそら堂~ちいさな古本屋さんのショートフィルム』 坂田 航() 6'00 | |
【審査委員長 品評】 古本屋の古本には、それぞれかつての持主だった人々の、それも様々な執着や野心や断念や闘いの証しであったものならなおさら、人生そのものが詰まっている、というのは真理である。だから、まるで古本屋という地味な場所からは思いもかけないような、奇想天外な波瀾万丈の展開も充分可能なはずである。痴話喧嘩に始まる笑劇や目を覆うばかりの犯罪劇、延いては世界を股に掛ける冒険譚、しかし、それもまたお釈迦様の掌ならぬ狭い古本屋の一角で夢見られた幻の映画。筆者はこの作品を見ながら、そんなことを考えていた。本作は古本屋を舞台に作られるものとして、一番ささやかなものだったのではないか。幼児の自分に絵本を読み聞かせてくれた母親への思いを募らせる若い娘。かつての想い人との初デートを回想する青年。その二人が歩み寄るのを見ている女主人の肩にも亡き夫の手が添えられて。映画を一本作るには余りに欲がなさすぎるという思いは筆者だけのものであろうか。 |
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