昭和29年夏、前年に『東京物語』を撮り終えた小津は、脚本家であり盟友の野田高梧に伴われ、初めて蓼科高原の野田の山荘「雲呼荘」を訪れました。『蓼科日記』に小津安二郎が最初に記した感想が「雲低く寝待月出でて、遠望模糊、まことに佳境、連日の俗腸を洗う」とあります。蓼科の自然、人情、旨い酒がすっかり気に入り、それまでの「茅ヶ崎館」から蓼科に仕事場を移し『東京暮色』以降、没するまでの6作品のシナリオがここ蓼科で書かれることになります。1本シナリオが完成するごとに100本の酒の空瓶が並んだという有名なエピソードが残されています。
高原での生活を愉しみ、酒を愛し、訪れる人々をもてなし、時には連れ立って散策をする。また、地元の人々とも気さくに付き合っていました。婚礼に祝いを贈ったり、小学校の運動会見物に出掛けたり、撮影所へ招待された人もいたそうです。そんな蓼科での様子は小津の日記などから克明に読み取ることができます。蓼科高原は小津映画の心のふるさとであり、多くの名作が生まれた土地です。
『雲呼荘』はすでに取り壊されて現存しませんが、小津が仕事場として、また東京から訪れる映画関係者などの接待の場所として使用した『無藝荘(むげいそう)』が残っています。昭和初期に製糸業で名高い諏訪の片倉家が地元の旧家を移築し別荘とした『片倉山荘』(木造平屋建て約126平方m)を昭和31年、蓼科に腰を据えシナリオを書き始めた小津が借り『無藝荘』と命名しました。その後に茅葺き屋根はトタンで覆われていましたが、建物にはほとんど手を加えられることはなく、潜り戸を抜けると囲炉裏のある居間とその奥の座敷が目に入ってきます。今にも奥から小津さんがカオを出しそうな・・・酒を酌み交わした囲炉裏端での談笑が聞こえてきそうな風情でした。この建物が当時のままに蓼科に残ったのは奇跡といっても過言ではありません。
その後、この山荘は個人の所有となりましたが、平成10年にスタートした蓼科高原映画祭では毎年映画祭期間中、所有者のご好意で一般公開して参りました。そして平成15年、茅野市と地元で建物を引き取り、蓼科の中心地の今までの場所にほど近いプール平に移築し改修を行ないました。周囲の環境も配慮し往時の雰囲気を残しながら茅葺き屋根を復元、できる限り部材は生かし風呂や釜、手洗い場の風情も当時の姿のままに再現しました。
小津、野田の二人は蓼科生活の一番の楽しみとして、日に何度なく蓼科の疎林を散歩した。中でも一本桜へは仕事が行き詰まった時や東京から客人を迎えた時など足繁く通った。今、一本桜は当時に比べてかなり大木になったが往時のたたずまいと変わらぬ姿でひっそりと立っている。正面に美しい蓼科山を望めます。
小津安二郎生誕110年、野田高梧生誕120年という節目に当たる2013年、一本桜までの約4㎞の散歩道が「小津の散歩道」として整備されました。小津が踏みしめた土、目にした風景、耳にした鳥の声など蓼科の自然を肌で感じることができます。