蓼科高原映画祭とは

小津監督と野田高梧氏小津監督

 日本映画史上、小津、黒沢、溝口の三大巨匠と賞され、世界の映画人からますます高い評価を得ている映画監督「小津安二郎」。日本人の一般的な庶民生活の中で、夫婦・親と子・家族などに生ずる心のズレを淡々と描きながら、いつの間にか時代を超え国を超えて普遍性を持った映画として人々に感動や愉しさを提しつづけた稀有な監督です。
 昭和29年夏、『東京物語』をつくり終えた小津監督は、コンビを組むシナリオライターの野田高梧氏の蓼科の山荘「雲呼荘」を初めて訪れました。八ヶ岳の山麓に拡がる高原の自然と霊気にふれて、小津監督はたちまち気に入ってしまい「水がうまい。洒がうまい。空気がうまい。」と、以後昭和38年に没するまで野田高梧氏と、この蓼科高原にあぐらをかいて数々の名作を送り出したのです。お二人は心からこの地を愛し高原の生活を愉しみました。そして、何よりも仕事に打ち込みました。蓼科高原は小津映画のこころのふるさとであり、ここ蓼科から晩年の多くの名作が生まれたのです。
 このようなお二人のゆかりの地、蓼科高原・茅野市で平成10年「小津安二郎記念・蓼科高原映画祭」がスタートしました。映画祭を通じて多くの方々に「小津映画・小津のこころ」に触れていただくとともに、小津に続く旬の内外の作品の上映、シンポジュームやシネマトーク、ここから21世紀の映画が生まれることを願い、平成14年に始まった短編映画コンクールなどを盛り込みながら「映画」を通して文化・人的交流が図られ、やがては映画・映像文化の発展につながることを期待しています。


小津安二郎プロフィール

1903年12月12日、東京深川(江東区)に生まれる。
小学生の時に父の故郷・三重県の松阪に移る。伊勢市の宇治山田中学校卒業後、三重県飯南郡飯高町の尋常小学校で1年間代用教員を務めた後、帰京。
1923年撮影助手として松竹キネマ蒲田撮影所に入社。
1927年時代劇『懺悔の刃』で監督デビュー。
戦後は脚本家野田高梧と組み『晩春』『麦秋』『東京物語』といった名作を次々に発表。『東京暮色』以降は蓼科高原(長野県茅野市)に盟友、野田と共にこもって脚本を執筆し晩年の名作を生み出す。
1963年12月12日、60歳の誕生日に逝去。
1957年の『東京暮色』から1958年『彼岸花』、1959年『お早よう』、1959年『浮草』、1960年『秋日和』、1961年『小早川家の秋』、1962年『秋刀魚の味』までの晩年全ての作品が蓼科で執筆された。
2012年、世界最古の映画協会の一つである英国映画協会(BFI)発行のSight&Sound誌が1952年から10年に1度発表している、358人の映画監督が選ぶ「映画監督が選ぶベスト映画」に「東京物語」が1位に、846人の映画関係者が選ぶ「批評家が選ぶベスト映画」で3位に選ばれた。



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