過去の受賞作品

第9回短編映画コンクール(2010)


グランプリ
『くらげくん』 / 片岡 翔(北海道) / 14'00"
【作品解説】

【審査委員長 品評】
全10篇のなかで、深い余韻を残しえたのは、唯一この映画であった。それも、人というものが人生のどこかで出会わなければならない「断念」というものの重みを伴って…。本作は、少年二人だけの物語である。といって、青春モノ、恋愛モノ、のほとんどパロディといっていい。恋愛する大人たちも、結局はこの少年たちとどっこいどっこいだなあと、思わせられる。もちろん、そう思わせるように、作為が込められているわけで、その作為に満ちたセリフを語る少年たちは、語らされているがゆえのぎこちなさと同時に器用さも持ち合わせる。そして、子供ならではのセリフが巧妙に交えてあり、決して、少年たちのリアリティを損なうことはない。特に、少女のようなひらひらの服を着ている‘くらげくん’の存在は大きい。何事も人生がじゃんけんで決まるなら諦められると言って、将来結婚しようと申し出ながら、最後に、あえて負けてみせる‘くらげくん’。男同士でそれはありえないとする相棒が、一度だまされただけにひやひやもののじゃんけんで結局は勝ち、ガッツポーズをするのを、‘くらげくん’は冷ややかな諦念のまなざしで見つめるのだ。中盤とラストに挿入される二つの曲も印象に残る。
準グランプリ
『Anne Jennings』 / 吉川仁士(三重県) / 16'08"
【作品解説】
生殖医療を題材にした、文部大臣賞受賞NNN“一人で産む女たち”の撮影にプロデューサーである渡部翔子が参加し、その中で得た経験から企画、原案を担当。2009年6月撮影、2010年1月に作品が完成する。脚本、監督である吉川仁士を中心にハリウッドの日本人映画留学生、現地学生、すでにハリウッドで活躍するプロ、そして役者、総勢80名で制作した日米合作の短編映画である。本作のテーマである生殖医療はアメリカでは定着し、ビジネスとして成立している。進んだ生殖医療は自然に子供を授かることが難しい多くの夫婦の希望となる一方、法律にグレーゾーンが多く、多くの問題を抱えている。家族間での卵子や精子提供、また精子バンクにおける人種、学歴、容姿によってランク付けされた精子の売買などがそれにあたる。将来、日本でも必ず問題となる生殖医療問題をテーマにし、人の生命に関する倫理観を問う作品となっている。

【審査委員長 品評】
このまま、長編製作にも繋がり得る本格派である。精子提供によって生まれた主人公アンが、己のアイデンティティを求めて、生物学的(いや、それ以上の)父親を求める心の中のジレンマを精神分析的なシーンとして組み入れたことも、そして、その表現にKirinの顔を持つ男を登場させたことも、その導入の仕方も、肯けるに充分な周到さを持ち合わせていた。だが、私が惜しむべき欠陥だと思ったのは、最後の父親の描写にある。(アンの生物学的)父親はアンの依頼に応じてアンの結婚式に来た。ところが、そこで、先ず出会ったのは、ここ八年ばかり互いに音沙汰のなかった息子のライアンだった。彼は結婚式場の庭園にいた。ライアンは、自分の結婚式のことを聞き知った父親が長年の親子の溝を埋めるべく来てくれたと思う。そして、屋内にいるアンを自分の父親に会わせるべく大声で呼ぶ。映画は、父親に、お前の結婚式のほかにも結婚式があるのかと一応問わせている。確かに、彼は、ライアンのためではなく、アンのために来たわけだから。しかし、その不審も膨らむことはない。すぐに父親の引き摺っている足のことに話題が転じてしまうからだ。大したことはない、と父親。だから、父親のただ一度の不審を思わせる質問も、ストーリー上の辻褄合わせにすぎない。映画は、登場人物の誰も、まもなく到来する深刻な事態に気づかない、という設定によって、より悲劇的よりアイロニカルな効果を作り出そうと狙った。だが、こうした仕掛けは、細部に渉るリアリティによってのみ、保障される。そのリアリティのほんの一端でも崩れる時、仕掛けそのものが、同じ精子によって作られた男女が知らずして近親相姦を犯してしまうという悲劇が、途端に、哂うべき作り話に転化してしまう。父親は、息子のライアンが、アンという名前を口にしたとき、恐ろしい予感に慄くべきではなかったか。父親がアンという名前に敏感であるはずなのは、すでに二人の初対面の時に描かれていた。ライアンとアンとの、あってはならない組み合わせに恐慌をきたし、怪我をした足を引き摺りながらも、この場から逃げようとしたのではないか。私には、映画のこの場に及んでの父親が、余りに能天気に見えて仕方なかった。映画のエンディングの構想が、登場人物のリアリティを犠牲にしてしまったと見る。
追記(2010.10.31記)
事後、[Anne Jennings]の渡部翔子プロデューサーの指摘によって、私が問題にしたラストのライアンによる新妻への呼びかけは、 Anne! ではなく Honey! であることがわかった。ネイティヴではない私には、英語のセリフの音が耳に届く前に、字幕に書かれていたアンという文字が先に目に飛び込んできての誤解であった。その点、お詫びしなければならないが、私の大筋の評価は変わらない。少なくとも、自分にすでに息子があって、その後提供した自分の精子から生まれたのが年頃の娘であることを知った場合(後先が逆であっても)、常に心のどこかに引っかかるものがあるはずだからだ。したがって、本来なら、同じ結婚式場で息子もまた結婚すると知ったとき、「お前の相手の名は?」と尋ねるのがスジだろう。それを敢えて封じなければならなかったところに、やはりまやかしは存在する。
入賞
『カキノタネ』 / 滝澤弘志(長野県) / 9'57"
【作品解説】
娘は退屈な日常にうんざりしていた。毎日を空想に明け暮れながら過ごしていたのだがある日、謎の小僧が現れる。モノクロとカラー。現実と空想のはざまに立たされた少女の動揺。キャスター、カラザ、遮断機。私が描きたいシーンやモチーフで水びたしな作品です。イメージの断片が先行したものですから異なるイメージ同士をこじつけるのに苦労しました。大仰なテーマなどはありません。直感で観て「わかるよ、その気持ち」などと思っていただけたら何より幸せです。

【審査委員長 品評】
映画の筋だけでいうと、家に落ち着かない母親が今日も今日とて外出した後の少女(主人公)の荒れ狂いように比べて、最後に帰ってきた母親のやさしい言葉ひとつで収まってしまう、というのは何ともおそまつでいただけない。興ざめである。ただ、この映画には、筋書きなどどうでもいいという、開き直りのようなものがあり、特に、作者のフェティッシュな興味からくるモノどもを、アニメとしては極めて行儀悪くも、デフォルメし、跋扈跳梁させたところに、可能性があると見た。冒頭、線路の踏み切りのシグナルを遊具にしてしまう少年が、まるで少女の救い主のように再び現われる、といった辺りは、モノから発想された展開が、平坦な筋書きに一瞬風穴を開けたように思われる。
『せば・す・ちゃん』 / 齋藤 新(北海道)、齋藤さやか(長野県) / 19'37"
【作品解説】
長野県塩尻市のJRの駅、洗馬(せば)を舞台にした映画。通勤のため毎日線路を挟んで向かい合う男女。男の胸に膨らむ恋の予感と希望。そして休日のある日、男は電車の中で駅の女に接近遭遇する。台詞なし、音楽極少、固定ショット主体、という制約を自らに課し、登場人物の感情とストーリーをわかりやすく、それでいてクスリと笑えるコメディに仕立てた。モンタージュを駆使すればアマチュアの機材、アマチュアの俳優、アマチュアの予算であっても面白い映画は作れるということを示してみようと思った。登場する中央線車両の数々も(列車好きの方は)お楽しみください。ちなみに313系電車、115系電車、383系「しなの」、185系「はまかいじ」など。

【審査委員長 品評】
これといって思い出せないし、思い違いかも知れないが、伝言メモへの書き込みが、皮肉な思い違いを生じさせるという話は、これまでに使われたような気がしてしようがない。(もし、そうでなければ、見事なアイデアを作者たちは考え出したというべきで、平にご容赦願いたい。)とはいえ、ここで主人公の男と、駅で毎日見かける女との、間に入り込む影の登場人物が、無人駅(洗馬)の一定時間にしか姿を現わさない中年男子駅員(洗馬・す・ちゃん)だったというトリックが、絶妙である。仕掛けは、先ずセリフを排除したところにある。セリフが存在したら、月曜日から丹念に積み重ねて少しずつ男を女に接近させていくミスリードの過程が一度に吹き飛んでしまう可能性があるからだ。そして、セリフの欠如を補ってなお雄弁なのが、警報器の音と電車の往来である。それだけに、都合よく、電車が按配されるのは、気になった。普段は、男の乗る電車の方が先に出るのに、女がキイホルダーを落す場面では、女の電車が先に出る。同じウイークデイのタイムテーブルが乱れているということになる。まあ、これは意地の悪いけちのつけようではある。だが、女の表情を読み取らせまいとしてか(一度だけ、携帯を見た女が不如意げな表情を見せる。いわば、作為として、男への隙を見せたということであろう)、年頃の女性が持つ華やぎさえ封じてしまったのは、男の日に日に高まっていく期待と高揚の表情をいまひとつ欠くのと同様、最後のオチの効果を損じた。
入選
『キュポラ』 / 加藤秀樹(福島県) / 18'30"
【作品解説】

【審査委員長 品評】
明らかに主題が分裂し、映画そのものが方向性を見失ってしまった。そのくせ、奇妙なことに、仕事を失った青年と同じように、仕事を得たはずの女まで、殊勝な<悔い改め>に至るとは?!狂想曲作りには、とりわけ緻密な計算が必要である。自分が起用しようとした青年の代わりにアイドル造りの女を押し付けられて、歌を録音するブースの中で荒れ狂う女性ディレクター兼ミキサーが巻き起こす猥雑な空間と、当て所なくキュポラの町へ帰るしかない(?)青年が辿り着くストリートミュージシャンの場所。それを、対比できる場面として置いたとすれば、その始まりに錯誤があったというべきであろう。ブースの中にはブースの中の闘いがあり、ストリートの上にはストリートの上の闘いがあるはずだからだ。二つの闘いは決して交錯しないのだという覚悟が必要だ。そこを甘く交錯できるように思い描いてしまうから、突然の<悔い改め>が起きてしまう。むしろ、目の前で捨て去られる青年の姿を見てしまったアイドル造りの女を、明確な主人公として設定し、青年を押し退けてマイクの前に立ったはずの彼女の、強いられる事どもとの葛藤、それらとの闘い、そして屈辱に這いつくばるのか、はたまた全身全霊をかけて抵抗ないし拒絶するのか、そこを描き切るならば、おそらく今はまだ見えない地平が自ずと拓けてくるだろう。作者には、その力量があるはずだ。
『セピア色のとけい』 / きのしたがく(東京都) / 7'30"
【作品解説】
時計職人の父と幼い娘の心の歯車のおはなし。この作品では父と娘のお互いを思う気持ちが小さな奇跡を起こします。いつもの毎日も多くの人の思いや感情によって作られています。そんな複雑で微妙なバランスの上に成り立っている世界がまた明日につながっていることすら私には奇跡に思います。この作品を見てくれた人が自分の周りにある思いや感情をいつもより少し大切にしてもらえたらと思います。

【審査委員長 品評】
[カキノタネ]とはまさに対照的な上品さ。アニメーションの特技ともいうべき簡潔さと絵本のようなファンタジー。だが、タイトルのセピア色というに似て、あまりに淡白、あまりに寡黙。なぜか父も去り、たった独り動かぬ時計に取り囲まれて暮らす少女。最後に、忘れていた誕生日を、父の残した仕掛け時計が動き出し祝ってくれたとしても、映画自体の仕掛けとしてはあまりに寂しいではないか。
『放課後とシンバル』 / 巻田勇輔(東京都) / 10'00"
【作品解説】
図書委員の田中あゆみ(17)は放課後に聞く、想い人である井野慶介(17)のシンバルの練習を楽しみにしていた。しかし、夏休み前日にあゆみの転校が決まる。あゆみは誰にも別れを告げることができない。学校での最後の時間を教室で一人過ごすあゆみ。そこに井野がやってくる。

【審査委員長 品評】
青春の甘酸っぱい断片を描いて、共通の感興を観客に共有させることは可能か。可能である。なぜなら、青春の思い出は誰にとっても甘酸っぱくなくはないからだ。だが、ほとんどの青春において、人はもっと固有の、恥と悔いの場面を持っている。それだけに、青春モノに求める欲求は、もっと貪欲なものであるはずだ。ラストの‘へたくそ’というセリフに万感を込めたにしても、物足りなさは否めない。
『僕の探しモノ』 / 福島禎雄(栃木県) / 13'15"
【作品解説】
シンゴ(7)は気の優しい小学2年生。不況の煽りを受けて失業し無気力状態になっている父、伸太郎(38)と妊娠4ヶ月の母、翠(34)と共に3人で暮らしていた。父、伸太郎は今日も寝室に閉じこもり塞ぎこんでいる。翠は我慢の限界を越え「働く気がないなら出て行く!」と口論を始めた―――。そんな不仲な両親を目の当たりにしシンゴは心を痛めていた。その後、シンゴが食器洗いをしていると誤って母の結婚指輪を排水溝に落としてしまう。タイミングを同じくして父にビンタされた母は別居を決意し出て行ってしまった。「結婚指輪っていうのはお父さんとお母さんが仲良しだって印なんだよ」と教わっていたシンゴは自分が結婚指輪を失くしたせいで母が出て行ってしまったと勘違いし、必至になって失くした母の結婚指輪を探し始めた。しかし、どう頑張って探しても結婚指輪は見つからない…。そんな最中、リング(繋がり)を探すシンゴの無邪気な心が両親の心を動かし始めシンゴの頑張りによって、やがて家族は絆を取り戻すのだった。

【審査委員長 品評】
子は鎹、というが、両親を別れさせまいとする少年の心情を、家を出て行く母親によって流し台に置き去りにされ、ふと自分が流してしまった結婚指輪を少年が必死で吊り上げようとする行為に象徴させたアイデアは充分説得力を持つが、夫と妻との間には何の解決策もなく、何の展望も開けぬところでは、またぞろこの日の朝のような光景が繰り返されるのがオチだろう。だとすれば、この作品のような予定調和を崩して、もう一度、次の朝、同じような光景を繰り返させ、今度こそは少年が怒りを爆発させる、とか、煮え切らない大人の日常を震撼させるような、エンディングがほしいところだ。
『僕の見た海』 / 植田久貴(岡山県) / 5'00"
【作品解説】
人のいない町。ロケを予定していた港町は撮影の一週間前に大型台風で甚大な被害を受けたと聞く。住人は海水にのまれまいと暴風雨の中、家も車も捨てて丘の上に避難したらしい。その事実を知ったのは近くの交番でだった。なるほど、撮影許可をとりに回るも波打ち際の民家には軒並み誰もいない訳だ。少子高齢化、過疎化の進む地方都市では本ストーリー同様に多くの老人が一人暮らしをしている。このドラマには言葉がほとんど無く強い主義主張はありません。何か感じるものがあれば、その気持ちを大切にして欲しいと思います。あわよくば主人公の"僕"同様温かな気持ちになってくれたらそれが本望です。

【審査委員長 品評】
いつも手ずから新聞を受取り何くれとなく好意を見せてくれていた一人暮らしの婆さんがここ何日か姿を見せない、となって、配達の青年が悪い予感を抱くなら、それは受取られることもなく放置された新聞を重ね、雨の日のためにビニールの覆いをかける行為で済むというものだろうか。新聞を重ねるうちに婆さんが戻ってきて、杞憂におわった、よかった、というだけでは、あまりに怠慢ではないか。それは、ほとんど、不作為と言っていいのではないか。なぜなら、青年が心配したことは先ず、婆さんがその閉ざされた家の中で倒れているのではないか、ということだろうからである。その肝腎な点を素通りしては、折角の材料が新聞紙と同じように寝かされたままである。素通りせず、じゃ、青年はどうするのか、に着目する時、ドラマは動き出す。極小短編だからといって、ドラマになる芽を摘み取ってはならない。
『ワタシのイエ』 / 古本恭一(福岡県) / 17'35"
【作品解説】
深夜....雨の中....女が一人で歩いている。一台のタクシーに目を留めそれに乗り込む。とまどう運転手に女は或る行き先を告げたのだった....。
去年の初夏、海外の映画に出演するため僕はロケ先である「富士の樹海」にいた。地元の人たちの話題に昇るのはやはり、無数に訪れる「自殺志願者」たちの事。この事を僕なりに映画にしました。

【審査委員長 品評】
始まりも、また行き先の定かならぬタクシーの中、車窓を当て所なく流れ行く夜景も、その先の何かを期待させてわるくない。ヒロインも雰囲気を漂わせ、運転手も相応に助演する。問題はコロッケ定食を食べてからだ。おかみの指差した行き先は皮肉にも富士の裾野に広がる樹海だった。さあ、どうなるか。ここまで導いておいて、作者は困難の道を選ばなかった。突如、車の前に現われた男。くずおれるように倒れたが、ぶつけたわけではないらしい。死と近接しているように見える男、彼を病院に届けてしまえば、もはや、振り出しに戻る。これを、彼等の何か変化を求める願望が何がしか果たされたのだ、とは言うまい。また、所詮この程度に空しいものさ、とは言うまい。作者は、行き先を告げずにタクシーに乗る女、というアイデアの先を読み切っていなかったというべきだろう。


全国より59作品の応募がありました
審査委員長
伊藤俊也(映画監督)
特別審査委員
工藤雅典(映画監督)
細野辰興(映画監督)
三浦淳子(映画監督)
阿部 勉(映画監督)
     


実行委員会事務局:〒391-8501 長野県茅野市塚原2-6-1 茅野市役所 観光まちづくり推進課内 TEL.0266-72-2101 FAX.0266-72-5833