過去の受賞作品

第17回短編映画コンクール(2018)


グランプリ
『Repeat After Me』 渋谷 悠(東京都) 15’00
【審査委員長 品評】
表題は生徒たち(といっても大人たち)に英語表現を自分の後に声に出して繰り返せと、教えている英語教師の常套句である。特に彼は、日本人は感情表現が下手だから感情を込めて言うように、いつも口酸っぱく云っている。ところが娘が父親のDVに曝され、それがおそらく原因で離婚したアメリカ人女性との付き合いにおいては、彼女の自分に対する好意を感じつつも(娘もまた懐いている)、そして同時に彼もまたそうであるにもかかわらず、うまく対応できない。言い換えれば感情表現が下手過ぎるのだ。それもその筈、彼は水槽に飼う亀を唯一の話相手に、毎晩ジグソーパズルを楽しむしかない孤独な独身男だ。だから、I am lonely. I feel lonely. といつものように生徒達に先駆けて声に出した時、その蓄積されたフラストレーションが遂に爆発する。それが選りによって教室の中、生徒たちの前であった。彼は思わず泣き出してしまうのだ。しかし、これがきっかけとなって彼はすでに帰国した彼女に連絡し住所を聞き出す。写真をメールに添付してではなく、紙焼きにして額に入れて送るからと、口実を述べてはいるものの思い切って会いに行こうというのだろう。フラストレーションの爆発を教室でやらせた、というのが手柄だろう。だから、さりげなく番地のナンバーを確かめるシーンの静けさが効いている。
準グランプリ
『声』 串田壮史(大阪府) 10’00
【審査委員長 品評】
窓外の木々が風にざわめく。あるいは雨が降って木の葉が雨音を増幅させる。音は周囲に満ち満ちているが声はしない。男は黙々と小さな町工場で働き、真っ直ぐに家に帰ってくる。その変哲のない日常の中に突如現れる影。それは静かに踊る女人の影だ。まるで、それは影絵のような影だ。それは窓外の揺らぐ木の葉の織りなす影か、はたまた男の願望が映し出す幻影なのか。まさに、今、男は女人の影に添うようにして踊り始める。やがて、枯葉が落ちるように幻影もまた裸木化していくのだが。はたして男の耳に届く声は?あるいは、見るものに届く声は?作者は、その声に耳を澄ましてくれとばかりに、すべてを単純化する。プロジェクション・マッピングの手法もできるだけ素朴に、といった配慮で。短編についての心意気が感じられる。
入賞
『島のシーグラス』 榊原有佑(愛知県) 20’00
【審査委員長 品評】
離島に移り住んでも土地の人々とは馴染まず、彼らからも胡散臭く見られている孤独な老人と、小学校四年生位の少女がふとしたきっかけで出会い、古美術商だった男を少女は先生と呼び、老人を前に好きな絵を描いて交流を深めていく。けん介な老人(或いは人物)が純真な魂に触れて心を開くというパターンはやや食傷気味だが、この少女役の少女がまさに掘り出し物で古美術商ならずとも掌中の珠にしたいと思わしめるのは当然であろう。この少女、父親を書いたという肖像画を見せに来るが、どうやらそれは想像上の画のようで、不在の父親に代わる存在に飢えているようだ。周囲の視線、特に母親の危惧を察して少女を追い出そうとする老人だが、それを拒否する少女の涙はやはり美しい。この幼き女神の力によって、病に身を委ねこの先の人生に殆ど何の期待も持てなかった老人をして生き直そうと決意させるに至るのだが、どうせなら孤島という神話的領域の世界をも二重写しにして、通俗的なパターンを超える道もあったのではないか。
『霞立つ』 永井和男(大阪府) 20’00
【審査委員長 品評】
順を追って登場人物とその関係性を説明し、彼らの生態を特に流行の話題や言葉で綴っていくというのが、映画においてもひとつの常識であることは間違いない。だが特に短編の場合には、一気に主題に入って行くのも優れた選択肢の一つだ。というのも、本作の全編を通して見ると、最初の喫茶店のシーンが如何にも、主人公の動機づけだけのために奉仕されているとも見え、全体を通す語り口としてはかったるく感じられる。それに引き替え、主人公が俄然ユーチューバ―たらんとして動き出すと、画面が生き生きし始める。そして、それにちょっかいを出してくる母親との漫才そこのけの会話もその弾みになっている。まさにイマドキの青春像がここにある。それを体現する主人公、めがねちゃんあってこそのチャーミングさだった。
審査員特別賞
新人賞 『霞立つ』 渡邉みな
入選
『怪しい隣人』 中元 雄(広島県) 9’55
【審査委員長 品評】
笑劇を作り続けようという心意気やよし、ただし、これほど難しい作業はないと心得よ。とは前回も云っている。では昨年の当映画祭入賞作「FUNNY DRIVE 」と比べて成長の跡は辿れたか。明らかに最初からその狙いで行きますよ、ではなく極めて日常的な単身者の引っ越しから始めている。そして若い男と手伝いの友人の関心は、隣人は若い女性らしいということだ。先程すれ違った可愛い女もこのアパートの住人であれば、さらに上物がいてくれてもおかしくない、と関心はいやがうえにも高まる。では挨拶に行ってみるか、と男の期待を膨らませてから隣の扉をピンポンする。と、これが常道だと思うのだが作者は先にこの部屋の内情を見せてしまう。というよりも作り手の方はこちらの怪しげな情報サイトをやっている三人組を主体において、先ずは新参のお隣さんを怪しいと勘違いさせてしまうという仕掛けだから、どうにも流れがちぐはぐになるのは必然だ。その辺の手順前後はスラプスティックには致命傷になりかねない。一方で料理をし始めた新参の若い男が、トマトケチャップの缶詰を開ける際にその中身を自分の顔やシャツに引っ掛けてしまい(この辺りの間合いは上手い)、おまけに片手に料理包丁を持って、という出で立ちがその後の騒動を巻き起こすことになるのだが、充分には笑えない理由はこのちぐはぐさにあると思う。全部が全部、先が読めてしまうのだ。だからせいぜいがくすくす笑い、爆笑は期待できない。笑劇にこそ緻密な構成が必要な所以だ。いずれ同じ作家による笑劇のグランプリを期待するだけに厳しい見方を提示した。
『公衆電話』 松本 動(東京都) 15’47
【審査委員長 品評】
未だに携帯を持っていない父親、何の用事があってか娘の住む都会に出てきたことを公衆電話から知らせてくる。これだけで娘にとってはすでにダサすぎる。結局、居酒屋の片隅で出会うことになるのだが、父のやることなすこと、すべて件の如しで二人の反りが合わない。父親の科白から、すでに娘の母親がこの世にいないことが推し量られる。だから、たとえ反りが合わなくても娘にとって安心して頼れるのはこの父親だけなのだ。その辺りは夜の街をどんどん歩いて行く不器用な父についていく娘の表情の変化に読み取れる。父親は別れ際に、ロッカーに忘れ物をしてしまった、と娘にキーを渡し後で送ってくれと言い残して去る。娘がロッカーを開くと、忘れ物とは父親からの誕生日プレジェントだったという仕掛け。ぶきっちょな父親の愛情表現ここに極まれり、というわけだが、娘の方も、ちゃっかり居酒屋の席で父の煙草の中に、煙草を吸い過ぎないように、と書いたメモを忍ばせていて、愛情のお返しをしていたというハッピーエンド。おい、おい、仕掛けが見え見え過ぎないか、と言いたくもなるが、公衆電話というタイトルが、文字通り父親像の見事なメタファーになっているところを買った次第。
『コメディ』 高山康平(千葉県) 15’00
【審査委員長 品評】
父と母と娘、親子水入らずの三人のハワイ行きの出発前の慌ただしいさ中、玄関の扉の前に立ったのは誰か。冒頭からコメディの作り方を作者心得ているな、と思った。そしてそれは、長年家出同然、行方知れずとなっていた姉娘であった。この姉娘の帰還が全くの異物襲来に近く、ハワイ行きどころか家族水入らずの関係をぶっ壊す方向に働きだすところに工夫があった。そして、その必然の結果として、そうはさせじと三人は姉娘を縛って雁字搦めにする。結論から云えば、その後の工夫が足りなかった。そのまま三人はハワイ旅行に旅立つわけでもない。他愛ないことに、雁字搦めの筈だった縄は簡単に解けたらしく、縄だけ残され庭から抜け出した姉娘が通りを逃げて行くのが映し出される。しかもナレーションが入って、ハワイで正月を過ごす小市民的在り様に付いての批評がましい駄弁が続く。これこそ笑えぬ駄弁以外の何物でもなく全くの蛇足。折角、面白くなりそうなコメディを台無しにしてしまった。
『Cで失神』 平野正和(東京都) 10’03
【審査委員長 品評】
ジーン・シェパードの短編小説をアニメーションとナレーション(しかも原文の英語)で綴るというアイデアはどこから生まれたのか。アニメーターのアメリカ人から得たアイデアだろうか。ともかく、J.シェパードの短編は作者の母校がモデルと思われる小学校を舞台に少年シェパードを中心とする悪ガキたちの生態を戯画化して描くものだけに、落書き帳を綴ったような画の連続で描くというのは適っている。教室を一種の戦場に見立てたような先生と生徒の攻防が、デフォルメを越えて超リアルであるのは、まさに原作者の手柄だが、それを作者たちはアニメという手法でちゃっかり頂戴したと云えよう。その点、原作者に殆ど<おんぶにだっこ>と言えるが、唯一、複雑な方程式におけるCの値を出せという難関を突破する答えが、原作では3となっているところを、アニメの特性を生かして画に描くとCは0に近いからと思いつかせ、正解を0としている辺りは工夫と云えよう。
『シンデレラのさえずりを聞け』 中野 森(長崎県) 19'25
【審査委員長 品評】
ウエディングドレスの新作宣伝プロモーションとして行われるモデルオーディションに勝ち残った五人のグランプリ最終候補。それぞれの最後のスピーチを終えて、ナンバーワンが選ばれるまでの控室での、それぞれの敵意剥き出しの応酬が見所、といいたいところだが、一人一人のキャラクターがそれなりに特色付けられているにもかかわらず、この間のおしゃべりの内容が常識的過ぎて、かなり減点。ただ、二つのどんでん返しを用意したところ、笑劇の心得ありと見て、今後一層の作劇術の練磨を望みたい。
『ぼくの壱番館』 松永祐樹(福岡県) 15’11
【審査委員長 品評】
回想への入り方が妙に理屈っぽい。あなたはキスが下手だった、とは、別れた女が最後に言い残した捨て台詞。いや、小学生の時からキス経験は踏んでいるぞとばかりに、回想シーンは、友人に連れて行かれて病み付きになった壱番館、熱帯魚を売っている店に直行、そこの可愛いお姉さんが、何かとご褒美にチューをしてくれるというサービス付きだったから。だが、そのチューは、最後の最後まで、もちろん唇にではない。そして、中学生になって、彼女から降りてしまった友人に成り代わって、というところで回想開け。彼が今立っている前にかつてあった店は既にないが、ご都合よくチューの彼女、かつてのお姉さんが現われて、二人は濃厚なキスをするというオチ。これは、はたして、彼の願望が作り出した幻であろうか。
次点
『浅草物語』 高松明子
【審査委員長 品評】
笑劇づくりの手順は一応踏んでいる。だが、正直、見ていて笑えないのが致命傷だ。それはなぜか。一言でいえば手順の踏み方が杜撰なのだ。冒頭、ハゲ友と大書したチラシ配りの主人公の描写、それも配った男達からどやされる主人公の描写から始まるが、最初の男は髪の生え際が多少ずれていると云えば云えなくはないが、第二の男にハゲの特徴はない。やはり、ここは、禿げ頭を狙い撃ちしようという主人公の意図、あるいは、にも拘らず、追い払われる仕掛けを作っておくべきだ。それは、以後のすべての場面に渉って言えることである。例えば、電柱にぶつけて段ボール箱の中のグラスが割れる所も、あれで当の主人公が気づかぬという設定の方がわざとらしく、むしろそれを知った上で、だから黙って片隅に置いてきてしまうのか、もっと細部を詰めていくべきだ。不自然に、笑いの路線を引こうとしても、かえって白けるだけ。窮余の一策を主人公(そして作者)が捻り出そうとするなかでこそ、面白いアイデアもまた生まれ、人を笑わせることができるのだ。酒屋の主人が腰を下ろすのに、普段わざわざ中身の分からぬ段ボール箱などを使ったりするわけがない。それをどうしたら必然的に、観客も納得できる形で人物を追い込むか、その努力が全く足りていない。時計を捨てる件でも、捨てても捨てても戻ってくる、というアイデアだけに浮かれて、その余りの不自然さには目をつむっている。自分に厳しく、と云うところから、再出発したまえ。そして、かつらを使っているらしい専務の落とし前も付け加えておくべきだろう。最後のクレジットの出てくるところで、主人公と専務が仲良くチラシ配りをするハッピーエンディングを作者は用意したが、筆者なら、突然の突風にチラシが舞い飛ぶと同時に、専務のかつらが吹っ飛ぶというオチを付けるだろう。

全国より35作品の応募がありました
審査委員長
伊藤俊也(映画監督)
特別審査委員
工藤雅典(映画監督)
椿原久平(映画監督)
冨永憲治(映画監督)
鈴木元(映画監督)

 


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